真実の講道館柔道!!@三河版
1投稿者:参州武道家  投稿日:2001/10/12(金)22:20:29

             八 天 春
             幡 照 日
             大 皇 大
             菩 大 明
             薩 神 神
                宮


「柔道(やわら)を極めたければ古流をやれ」
これが講道館柔道の創立者嘉納治五郎の遺言でした。
すでに彼は大正年間に「今の講道館柔道は私の講道館柔道ではない」
という発言をしていました。
そもそも講道館柔道はもともと柔術の一派として旗揚げして
出発したことは知る人ぞ知る事実であり、講道館の道場開きには
各流派からお祝いにかけつけたことが記録に残されています。

さて、古流柔術というとなにやらもっぱら形ばかりを行って
いる伝統舞踊のような印象を受けますが、じつは形と並行して
乱捕りを行っていた流派は多いのです。
これは現在考えられている以上に江戸時代から各流派は交流が
あったためであり、異流派間でも当身を禁止した乱捕りは
よく行われれていたのです。

さて嘉納流であるが、当初は他の流派と同じく乱捕りと並行して
形の修練も行われていた。すなわち古式の形、極めの形、柔の形、
剛柔の形などである。
また、嘉納流の門人達がそれぞれ古流をも極めたつわものたちで
あったことも有名な事実である(講道館四天王など)

しかし、やがて嘉納流はその売りでもあった合理的な修行法と
それに伴う大衆化によって、もっぱら乱捕りのみを行うように
なっていったのである。それに反発する形で各古流諸派は形の
保存を強調し、今のように乱捕りの講道館、形の古流柔術の
構図ができあがったのであった。

さて、このように乱捕り競技におもきを置いた講道館柔道であるが、
それでも講道館は柔道が「武道」であることを忘れてはいない。
しかし、現在ここにこの柔道から武道を抜き去り骨抜きにしようと
企む勢力がいる。即ち、国際柔道連盟(本部韓国ソウル)である。
現在、講道館は「武道」を守るために敢然と国際柔道連盟に立ち向かっている。
みなさん、日本の武道を守る講道館に励ましのレスを!
そして、柔道のより一層の武道化への叱咤激励をお願いいたします。

(参考)武道板@2ちゃんねる 真実の講道館柔道
http://yasai.2ch.net/test/read.cgi/budou/1001077827/l50 [そーす]
2投稿者:三河人  投稿日:2001/10/12(金)23:22:05
素晴らしいですね。読み応えがありました。

高専柔術ってのも古流になるのかな?(字が違うかも)
3投稿者:参州武道家  投稿日:2001/10/13(土)19:42:39
高専柔道ですね。
講道館柔道の亜流で古流とは違います。
しかし、寝技を得意とするところなどはかつての古流柔術と
講道館の他流試合を思わせるものがありますね。
4投稿者:三河人  投稿日:2001/10/13(土)19:51:46
あ、高専柔道でしたか。間違えてましたね。
なんか非力な学生でも勝てるように考えぬいて生まれた柔道とか。
本の受け売り情報ですけど。
5投稿者:名捨て人  投稿日:2001/10/14(日)03:48:59
柔道の話題のスレが分散していますね。
柔道そのもについては、こちらでするとしましょう。
6投稿者:名捨て人  投稿日:2001/10/14(日)03:55:37
>6投稿者:三河人  投稿日:2001/10/14(日)01:30:15 返 ???

>>「柔よく剛を制す」
>>「小よく大を制す」
>>がなくなったのが柔道の人気低下の原因でしょうね。
>まさしくその通りかも知れませんね。
>やはりヒーロー的というか、不可能を可能にするみたいな感じのものに
>憧れたり感動したりします。

今の柔道はほとんど力技のようにしか思えませんね。
嘉納治五郎は合気道について「理想の柔道」だと言った
そうですが、三船十段の空気投げなぞは合氣の力を使った
柔道と言えるのではないでしょうか?
「柔よく剛を制す」
「小よく大を制す」
ためには氣や脱力について、柔道ももっと真剣に取り組むべきだと
思います。
7投稿者:三河人  投稿日:2001/10/14(日)11:38:34
空気投げ=すみ落とし でしたか(漢字がわかりませんでした)
技のかけ方自体は知らないのですが
正に合氣の力を使った柔道だと思います。

あと「山嵐」も凄く興味がある技ですね。
幾度と無く、本や映画で取り上げられてきてるのをみて
幻の技としては薄れてきていますけど(笑)
8投稿者:名捨て人  投稿日:2001/10/14(日)13:59:14
三船十段の技です。
まさに達人の技です。

http://judoweb.net/cgi/faq/faq.cgi?type=%95%5C%8E%A6&docfile=4.html&word= [そーす]
9投稿者:名捨て人  投稿日:2001/10/14(日)15:44:41
これこそ武道としての柔道の真髄だ!

人間は修練によっては、変幻自在、
あらゆる変化に応変できる身体の構造を持っており、
球の境地になりうる--。
http://www.hint.co.jp/kshop/vo21_j.html [そーす]
10投稿者:三河人  投稿日:2001/10/15(月)00:01:29
8のURL名が渋いですね(笑)
もはや、インターネットで何でも知ることができそうな雰囲気になってきて
助かりますね。

9のURL先のビデオも渋い!!
映像もマニアにはたまらないものに見えそうですね。
11投稿者:名捨て人  投稿日:2001/10/19(金)23:02:27
ヨーロッパに柔道を広めた功労者
石黒敬七氏は

「(外国人は)ただ、スポーツ的に投げるというよりは、
もっと勝負的に考えているんですね。
だから、僕らが行って、ただ投げるとか、締めるとか、
抑えこむとかでは不満なんです。僕はその時つくづく後悔
したのは、なぜ日本にいる時にもっと古流の型を研究して
来なかったかということでしたね。」
と語っている。(オール読物、昭和25年、三月号)


12投稿者:名捨て人  投稿日:2001/10/20(土)13:36:28
嘉納治五郎の命を受け合気道に派遣された
望月稔とい人が創始した養正館合気道というのが
あるらしい。
13投稿者:名捨て人  投稿日:2001/11/14(水)13:24:31
80 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 :01/11/13 23:46 ID:K68akg66
ボロ負けはしていません。
古流、講道館とも五分五分の戦いでした。
柔道がここまで広まり、古流がここまで衰退したのは
むしろ戦後になってからと言ってもいいでしょう。


81 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 :01/11/14 01:12 ID:mxnjzuIA
>>80
第二次大戦で中止になった「幻の」東京五輪では
柔道も競技に含まれていたようですが、何か?


82 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 :01/11/14 13:07 ID:wfvbno4w
>>81
それは知りませんでした。
貴重な情報をありがとうございます。
でも、そうなれば当然武徳会傘下の古流からも選手が
出場した可能性は高いでしょう。
14投稿者:名捨て人  投稿日:2001/11/14(水)13:25:46
昔の柔術には「裸体取り」という技の体系があったらしい。
 ・・・で、その名残の一つが、あの「裸締め」らしい。


15投稿者:名捨て人  投稿日:2001/11/14(水)14:16:31
柔術道場がそのまま柔道の道場になるというケースは
けっこうあったみたいですね。
http://www.google.com/search?q=cache:QIOTKW96Fys:www.meidoukan.com/ayumi/ayumi.html+%96%9E%8FB+%8F_%8Fp&hl=ja [そーす]
16投稿者:名捨て人  投稿日:2001/11/14(水)14:18:50
アドレスこっちでした。

明道館のあゆみ
明道館は、明治29年(1896)10月、福岡藩に伝わる武道「自剛天眞流柔術」を源流に、玄洋社の付属道場として創設された。
http://www.meidoukan.com/ayumi/ayumi.html [そーす]
17投稿者:名捨て人  投稿日:2001/11/15(木)16:17:40
http://isweb2.infoseek.co.jp/~kdx200sr/cgi-bin/memo/log/010826992521.html [そーす]
18投稿者:名捨て人  投稿日:2001/11/15(木)16:22:40
 柔道関係のストーリーで「幻の必殺技」として登場することがやたらに多いのがこの山嵐。
 講道館に伝わる型を見る限りでは、正直なところとても効きそうもない…というか、あれだと山嵐として認定されるように山嵐を使うのは、よほど特殊な状況でなければありそうもない。
 それなのに人気が絶えないのは、やはり姿三四郎にインスパイアされた人間がどっさりいるせいなのだろう。
 ここで取り上げるのは講道館正統の型ではなくて、姿三四郎のモデルである西郷四郎が古流柔術を学んでいたのではないかというところから研究された柔術山嵐。

http://plaza7.mbn.or.jp/~moroha/judo/yama/yama.htm [そーす]
19投稿者:名捨て人  投稿日:2001/11/15(木)16:23:21
真宗大谷山大光寺は慶長19年(1614年)慶了によって開山しました。当初紺屋町に建てられましたが万治3年(1660年)現在地に移りました。本堂前から左手の墓地にはいると西郷四郎の墓があります。西郷四郎は富田常雄の「姿三四郎」のモデル、講道館四天皇の1人として柔道創世期に得意技、山嵐で鳴らした柔道の天才です。55年の生涯のうち30年を長崎ですごしました。
http://www2.nagasaki.isp.ntt-west.co.jp/wnn-c/topics/train/shokakuji/daikou.html [そーす]
20投稿者:名捨て人  投稿日:2001/11/15(木)16:24:23
・講道館より二百年はやく「柔道」を称した直信流 寺田勘右衛門

●第二章 講道館柔道の発展
 ……近代武道への道を切り開いた講道館の青春
・柔道の父 嘉納治五郎
 柔道の「原点」
 “柔能制剛”を否定した嘉納
 矛盾をかかえての出発
 講道館に挑戦した諸勢力
 講道館の当て身技乱取法
・講道館の天才児 西郷四郎
 「姿三四郎」のモデル
 蛸足と“死合”
 山嵐
 失踪の謎
 長崎へ
 第二の必殺技
・「柔道」の回想録 富田常次郎
 伸坊さんと呼ばれた嘉納治五郎
 講道館“道場”移転物語
 中村半助対富田の一戦
・“鬼横山”と呼ばれた男 横山作次郎
 天狗投げ
 地獄の特訓
 柔道対唐手の一戦
・アメリカを制す 山下義韶
・“一番槍”の回想録 磯貝一
・“山嵐”を封じ込めた男 永岡秀一
・広瀬武夫と引き分けた試合巧者 馬場七五郎
・道場破りに弟子入り? 徳三宝
・空気投げ開発物語 三船久蔵
・おもしろコラム(2) ドイツ人歴史学者の見た明治の「柔」
・おもしろコラム(3) 普段着と兼用の柔道衣
・おもしろコラム(4) “柔”の極意売り
・おもしろコラム(5) 猛獣に対して柔道かはいかに対応すべきか!?
・おもしろコラム(6) 「姿三四郎」の物語

http://homepage2.nifty.com/AIKI/media/ha0015.html [そーす]
21投稿者:名捨て人  投稿日:2001/11/15(木)16:25:04
・柔道技
 柔道の総本山である講道館によると、現在柔道技は67の投げ技と、29の固め技があるらしい。で、山嵐は投げ技(手技)のひとつで、故三船久蔵十段の得意技。俳優の方の「世界のミフネ」とはなんの関係もない。よって、元虎舞竜の高橋ジョージとはさらに関係がない。
http://www.eurus.dti.ne.jp/~takeru/rankoption1.htm [そーす]

22投稿者:名捨て人  投稿日:2001/11/15(木)16:25:33
 講道館柔道が、その実力を開陳し、世の注目を集めたのは、明治十九年(1886)の、警視庁武術大会での勝利だった。当時、警視庁は、警察官に修得させるべき武術を選定せんとしていた。警視庁武術大会は、その選定の資料とされる大切な試合だった。この武術大会に講道館代表として出場したのが、西郷四郎である。当時、試合時間は三十分という長丁場で、今日の国際的スポーツとしての柔道とは、全く異なり、むしろ果たし合いの様相であったという。
 西郷四郎は、得意の山嵐で、当時、千葉方面で勢力を持っていた楊心流戸塚派の昭島太郎を下した。ここに、講道館柔道は、正式に、警察官必修科目として、警視庁に採用されることになる。時の警視総監は三島通庸。福島事件で、自由民権運動を弾圧したことで名高い内務官僚である。

http://www.venus.dti.ne.jp/~bouzu893/iitai/it61_80/iitai69.html [そーす]
23投稿者:名捨て人  投稿日:2001/11/15(木)16:26:03
しかし、西郷四郎は、御式内の後継者たるべき身でありながら、講道館で頭角を現し、四天王の名を冠されるまでになる。西郷頼母との関係は、気まずいものになっていったに違いない。西郷四郎が、講道館を去った理由に、西郷家との関係が取り沙汰される所以である。

 なお、西郷四郎という後継者を失った御式内は、西郷頼母から、会津のお抱え力士の家に生まれた武田惣角に、大東流柔術として伝えられることになる。この武田惣角の弟子が植芝盛平であり、植芝の弟子が富木謙治である。今日、合気道と名乗る各流派は、この三名のいずれかを始祖と仰いでいる。すなわち、御式内こそは、今日の合気道の源流である。
 面白いのは、富木謙治である。富木謙治は、十歳の頃から柔道に親しみ、早稲田大学柔道部を経て、植芝門下に入り、戦後は、講道館に出入りしながら、それまでは型の修得のみであった合気道に、柔道同様の乱取り(自由練習)を考案し、競技としての合気道を制定している。これこそは、講道館柔道と御式内を共に修得した西郷四郎の歩むべき道だったはずである。
http://www.venus.dti.ne.jp/~bouzu893/iitai/it61_80/iitai70.html [そーす]

24投稿者:名捨て人  投稿日:2001/11/15(木)16:26:41
柔術では、今でも、相手の力を利用する技や、相手の力を無効にする力のかけ方がありますが、最近の柔道は、力がある者が勝つような気がします。
講道館に今でも、空気投げと呼ばれる技「隅落」が伝わっています。かの三船十段の得意技として、伝説になっているほどです。まさに、柔術から伝わった、力の使い方が必要な技で、最近ではまず見られません。
結論、柔術は、戦の際、組み打ちなどから産まれた戦闘術であり、柔道はそれを元に、精神修練などの、人間としての道を極めるための物だと思います。
http://merumo.ne.jp/backno/reader/00005050/5456.html [そーす]
25投稿者:名捨て人  投稿日:2001/11/15(木)16:30:09
のちに旅順口閉塞戦で戦死する広瀬武夫小佐がモスクワ駐在中に柔道の手でロシア軍人を投げとばしたといったエピソードがある。それらは「旭日昇天」の「文明国」が、「疲労退癈」の「文明国」にとって代わっていく過程を示してはいないか
26投稿者:名捨て人  投稿日:2001/11/15(木)23:51:38
あのブルース リーに日本武道家がケガを負わせた!

「ドラゴン怒りの鉄拳」で共演した2人の日本人のうちの1人、
勝村 淳さん。この人は勝 新太郎さんの愛弟子に当たる
人で、勝さんのスタンドインをつとめていたという話を聞いたことがあ
ります。

 勝村さんとリーの間に起こった有名なエピソードに、
「勝村氏の一本背負いでブルース リーは撮影中止に追い込まれるほど
の怪我を負った」というものがあります。私は膝の怪我だと思っていた
のですが、真相は背中からももの部分にかけての内出血、ということの
ようでした。

これがきっかけでブルースは撮影を2日間休んだといわれています。
この話が現地の新聞にスッパ抜かれたとき、彼は「古傷が痛んだだけだ」
と反論したといいます。
27投稿者:名捨て人  投稿日:2001/11/16(金)08:48:05
>>14
天神真楊流には今でも裸体捕之事三本が伝わっています
28投稿者:名捨て人  投稿日:2001/11/16(金)23:05:12
木村がエリオを倒せた真相!
木村は10年無敗という天才的柔道家である、しかしエリオとの試合ルールは柔道ではなく、
バーリ・トゥードから打撃を禁止して、どちらかが参ったをするまで戦うというルールである。
なぜ、エリオに有利なルールであるのに、木村が、エリオを倒すことが出来たのであろう。
その真相とは”プロ柔道”にあるのである。正式な名称は国際柔道協会(牛島辰熊8段が創る)
昭和25年、木村は、牛島の創ったプロ柔道に第一号として入団する(木村は牛島の直弟子)
そして本拠地を池袋に置いて、プロ柔道が従来の柔道より強い柔道とアピールするために、
それまで、危険技として禁止されていた、古来の柔術技、関節技を次々に復活させたという。
例えば、指関節(2本以上)足首、膝、肩、首絞めを認める、そして参ったで決着するルール。
昭和25年にプロ柔道は旗揚げするが、4ヶ月10回の興行で終わりハワイでの興行で消滅、
木村は、ハワイでプロレスラー(日本人初?)に転向しハワイを経てメキシコに遠征したという。
エリオが、木村の”プロ柔道”を事前に知っていたら試合結果は違ってたかもしれない!
http://www.geocities.co.jp/Colosseum/4160/kai/er/er.htm [そーす]
29投稿者:名捨て人  投稿日:2001/11/17(土)13:46:00
武田惣角→松田敏美
      ↓  
    奥山龍峰(日本武芸司護身道八光流柔術)
      ↓
    大庭一翁(武田流合気之術)
      ↓           ↓
    宗道臣(日本少林寺拳法) 鳥居隆篤(柔法相塾 柔法徹化拳)
               
30投稿者:名捨て人  投稿日:2001/11/19(月)18:55:06
「当技(当身技)を含めた乱取や試合は、追々工夫もし、深く考究すれば、その方法は無いでもあるまいと思うが、唯それは、投げたり、抑えたりすることの優劣をきめるほどたやすくはない。」(嘉納治五郎師範)
31投稿者:名捨て人  投稿日:2001/11/21(水)17:20:05
>>14
あの天神真楊流にも『裸体捕之事』三本があるのを
見つけました。その三本それぞれがどんな技かは
わからないのですが、一本目はやはり締め技のようです。
あらゆる場面を想定した柔術の技術体系には時に
驚かせられることがありますね。
32投稿者:サブミッションマスター  投稿日:2001/11/24(土)23:22:05
極の形にはがっかりした。
形でさえ肘関節のみに限定しているとは。
あれじゃ実戦にはとてもじゃないが使えません。
形としてやる意味さえも感じられません。
33投稿者:名捨て人  投稿日:2001/11/29(木)16:04:21
>32
講道館護身術のほうはどうでしょう?
34投稿者:名捨て人  投稿日:2001/11/30(金)23:04:30
高専柔道
北海道大学、東京大学、京都大学、九州大学など、「旧帝国大学」のみに継承されている柔道。柔道を「競技」として位置付けていこうとする嘉納治五郎の講道館柔道の方向性とは反対に、あくまでも実戦を想定した護身術としての技術を継承しようとした「大日本武徳会」という団体がいた。大日本武徳会は戦前、陸軍と海軍がリードして組織した武道組織だが、そこで学ばれる柔道は初期の講道館のように絞め・関節技を重視するより実戦的なものだった。その系譜を引き継いでいるのが高専柔道である
http://www1.odn.ne.jp/~caz06730/jiten.html [そーす]
35投稿者:名捨て人@深夜です  投稿日:2001/12/12(水)00:04:59
1949(S24)5月5日。柔道家の木村政彦が、柔道全日本選手権大会で優勝する。この時、力道山は5月場所で自己最高位の関脇に昇進した。2人は54年12月22日、蔵前国技館で初の日本選手権試合を行うことになる。
1950(S25)4月16日。GHQの指令で師範の立場を無くした柔道家たちが、プロ柔道の「国際柔道協会」を設立した。同29日には木村政彦が、山口利夫を破ってプロ柔道初代日本王者になった
36投稿者:名捨て人  投稿日:2001/12/17(月)20:59:09
三上 富治
起例流、天神真揚流師範。山形の鬼といわれた柔術家。冊京都武徳殿にて講道館磯貝一、永岡秀一等を破った達人。横山作次郎の兄弟子。横山を鍛え講道館に推薦する。
惣角に敗れ心粋、教授代理として各地に大東流普及
37投稿者:名捨て人  投稿日:2001/12/17(月)21:01:25
児玉 高慶
興武館長、神道無念流師範、講道館五段柔道教土、秋田児玉道場主。
大正14年宮内省特別試合に京都武術専門学校長・武徳会副会長西久保弘道を降し、台覧の摂政宮・昭和天皇が待従に「あれが秋田の児玉高慶か」と三度宣わせられた。
門人1200余名を有す
38投稿者:三河人  投稿日:2001/12/20(木)01:18:30
これってどうなんでしょ?
http://www.asahi.com/international/update/1219/018.html [そーす]
39投稿者:名捨て人  投稿日:2001/12/20(木)14:34:05
>>38
アホですな。
国ぐるみで文化を捏造したり、他国民を誘拐したりと
ほんとにとんでもない国ですね。
40投稿者:三河人  投稿日:2001/12/20(木)20:32:42
>国ぐるみで文化を捏造したり、他国民を誘拐したりと
国ぐるみで先行者で笑いを取りに来た中国はよかったのに(笑)
41投稿者:名捨て人  投稿日:2001/12/21(金)13:24:14
先行者って何ですか?
42投稿者:三河人  投稿日:2001/12/21(金)18:51:33
『侍魂』の先行者ー。有名過ぎー。
http://www6.plala.or.jp/private-hp/samuraidamasii/tamasiitop/robotyuugoku/robotyuugoku.htm [そーす]
43投稿者:名捨て人  投稿日:2001/12/22(土)23:42:11
大笑いしました。
44投稿者:日本柔道史より  投稿日:2002/01/27(日)11:26:52
要するに地味な小技から派手な大技、いいかえると第三者から見て
美しく見える技へ技へと変化していったという訳だ。
大正初年頃はこの傾向のもっとも著しい時代で試合は立技、立技は大技
ということが通年となり、試合に臨んで寝技など用いようものなら
「穢い穢い」
と口を極めて嘲罵されるということになった。
したがって寝技の研究も次第に怠られ、抑技の袈裟固め、
上四方、横四方、絞め技の突込絞、関節技の甲手拉・荒馬・十字固という
幼稚な技しか行われず、この状態は滔滔として一世を風靡し
大正十年頃までは全く文字通り立技一色の世界であった。
45投稿者:転覆3  投稿日:2002/04/14(日)07:43:44
>>3
高専柔道は古流や合気道とは逆で嘉納先生からは疎まれた存在でしょう。
あのように手段を選ばず勝負にこだわるスポーツ的な考えではね。
46投稿者:転覆3  投稿日:2002/04/14(日)09:04:58
>44の日本柔道史よりさん
>大正初年頃はこの傾向のもっとも著しい時代で試合は立技、立技は大技
>ということが通年となり、試合に臨んで寝技など用いようものなら
>「穢い穢い」
>と口を極めて嘲罵されるということになった。

この辺も立ち技中心であった古流への懐古の一環でしょう。
47投稿者:名捨て人  投稿日:2003/05/31(土)19:24:29
この率角を近代になり復興、普及させたのが清末の軍人馬良である。
日本人教官を招いてつくられた北洋武備学堂に学んだこともあった
彼は日本の柔道のようにこの清朝伝統の武術を軍事武術と生かしたいと考えていた。
そこで柔道に習い、率角を新たに近代的なもに改良し普及させたのである。
たとえば柔道のように受身技をとりいれたことにより、この競技による
負傷者を大幅に減らしたことがわかっている。「中華新武術 率角科上編」

また、1911年の一時期この率角の教材は『柔術教範』と名づけられていた。
(「柔術」とは言うまでもなく日本の武術用語である。)

このように北方騎馬民族によって中国にもたらされた格闘技が日本
柔道の影響を受け近代になって編成されたのが現在の率角(?角)なのである
48投稿者:梶原ひいき  投稿日:2003/09/20(土)21:58:04
警察、自衛隊はスポーツである柔道を習うより、より実践的な殺人業、古流柔術(戦国期までは「相撲」といったそうな。もちろんいまの大相撲とは9割方異なるもの!)この「相撲」を教習すれば、実戦により役立つというものだ。何しろ警察も自衛隊も、「実戦」が仕事なんだしね。ほんと!!
49投稿者:名捨て人  投稿日:2008/08/30(土)22:15:19
不遷流の田辺師範が開発した
「足絡み」という技はかなり強力な技だったようですね。
50投稿者:名捨て人@いっ、ぃくいくぅぅ19年目  投稿日:2018/12/11(火)07:22:32
山嵐の正体は恐らく通常とは逆回転で腕の下に潜り込み肘関節を極めながら足を蹴り上げて投げてたと確信してる
これなら背の低さも有利になるし裸の相手にも掛けれたり一度体勢に入れば防ぐのが難しかったり頸椎から落とすとか数々の記述にも合点がいく
今やったら反則だし当時としてもエグイ技だったんで意図的に逆回りの事を隠してる感じがする
天狗投げも似たような理由で詳しくは残ってないが恐らく膝の上に叩きつけるバックブリーカーか投げと同時に肘を叩きつける半分投げで半分当身のような技だったと推測
詳しい形が残ってないのは決まったやり方ではなく臨機応変に掛ける技の為伝承されず又残酷な技だったと予想
唯一残ってる骨身に沁みるとか受け身がとれないとかが根拠で原型が天狗勝と言う事もその理由でもし一部で言われるように肩車なら受け身はとれるし骨身に沁みるのとはちょっと違う感じがする
どっちもろくでもないエグイ技だったのは想像出来るしそこにロマンなんぞ無いな
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