何かと、トLOVEらないために愛の法則
1投稿者:まりや  投稿日:2003/05/02(金)05:36:12
愛の伝道師 女ミッチー 怪傑!熟女的にほほうとホモったものをコピペ。
2投稿者:STEP1『してあげたことを忘れよう』  投稿日:2003/05/02(金)05:39:34
「私はあの人に、これだけのことをしてあげたのに」
ということは、人は、細かいことまでよく覚えています。
その代わり、人にしてもらったことは簡単に忘れてしまいます。

夫婦や恋人同士のいさかいの多くは、「してあげたこと」と
「してもらったこと」の不釣合いへの不満から生まれます。
誰でも、自分が人にしてあげたことは重大なことに感じますが、
人にしてもらったことは軽くみてしまいがちですので、
釣り合いがとれるはずがないのです。

「こうしてほしい」という要求には、きりがありません。
「こうしてくれてありがとう」という感謝にこそ、愛の喜びがあります。

彼(彼女)に「してもらったこと」を、よく思い出してみてください。
「してあげたこと」は、すべて忘れることです。
公平にみて、それで、ちょうどいいくらいなのです。
3投稿者:STEP2『幸せからスタートしよう』  投稿日:2003/05/02(金)05:42:03
愛される人は幸せです。「愛されるから幸せ」なのではなく、
「幸せだから愛される」のです。
幸せは、どこにあるのでしょうか。運のいい人だけが、
たまたま手に入れられるものなのでしょうか。いえ、
人は誰でも、幸せになることができます。人間の幸、不幸は、
客観的な現実によって決まるのではありません。その現実を
どう受け止めるかによって決まるのです。

末期ガンを宣告されたある人は、こう言いました。
「私は、ガンに冒されて幸いだった。もしも交通事故で
一瞬のうちに命を落としていたら、愛する家族や友人に、
最期に感謝を伝えられなかった」
もしもあなたが、「私は不幸だ」と嘆いているならば、
それは、ばち当たりというものです。
不幸とは、「与えられたものへの感謝を忘れ、
ないものばかりを数えて不満をいうこと」をいいます。
4投稿者:STEP2『幸せからスタートしよう』  投稿日:2003/05/02(金)05:42:34
繰り返しますが、人は誰でも必ず幸せになることができます。
何か形のあるものを手に入れる必要はありません。
幸せに気づきさえすればよいのです。
幸せは、人生のゴールではありません。スタート地点です。
幸せからすべてが始まるのです。
「他人に幸せにしてもらいたい」と願うのではなく、
まず自分の幸せを認識することが、愛される一番の近道です。
幸せな人のまわりには、自然と人が集まります。そして、
幸せは人から人へ伝染し、ますます増幅していくことでしょう。
5投稿者:STEP3『顔の筋肉を鍛えよう』  投稿日:2003/05/02(金)05:46:45
「人間は見た目ではない」といいますが、やはり、
見た目は、自分をアピールする上で、とても大切なものです。
もちろん、鼻筋が通っているとか、やせているとか、
背が高いとか、そういう外見のことをいっているのでは
ありません。美人やハンサムであるということよりも、
もっと重要なことは、「いきいきとした表情をしているか」
ということです。整形手術の広告では、必ずといっていいほど、
整形前の顔写真は無表情、整形後は満面の笑みで写っています。
もし表情が逆なら、おそらく整形前の方が美しく見えるでしょう。
人の顔は、笑うだけで、無表情よりも何十倍も美しく見えるのです。
今日から毎朝、鏡を見ながらニッコリと笑う習慣をつけてみましょう。
顔の筋肉を笑顔に慣れさせるのです。顔の筋肉も、腕や脚と同様、
鍛えなければ思い通りに柔軟に動かせません。
表情の豊かな喜劇役者は毎日顔の筋肉を動かす練習をしています。
いつも笑顔でいる人を見ると、誰でも、親しくなりたいと
思うことでしょう。幸せな気分を分けてもらえるような
気がするからです。いきいきとした笑顔が、愛を呼び込みます。
決して、二重まぶたや高い鼻が愛を生むのではありません。
6投稿者:STEP4『相手の目を見て話そう』  投稿日:2003/05/02(金)05:50:23
相手の目を見て話す。――あまりに言い古された言葉ではありますが
まだまだ、これを意識して実行されていない方も多いのでは
ないでしょうか。人は、嘘をついたり、隠しごとをしている時は、
相手の目を見て話すことができません。相手の目を見る
と言うことは、「私はあなたに完全に心を開いています」
というサインなのです。「この人は、真摯に私と向き合おうと
している」と、よい印象をもたれることでしょう。
目を見るといっても、じっと見つめ続けるのも変ですので、
実際には、鼻のあたりを見ながら、時々ちらりと目を
見るのがよいと思います。恥ずかしいからといって、
目をそらせてしまっては、相手の機嫌を害する可能性
さえあります。特に、目があった時に横にそらしてしまうのは
最悪です。相手を蔑視していると勘違いされても仕方ありません。
どうしても目をそらしてしまうなら、下にそらすべきです。
これなら、単に恥ずかしがっているだけと見られ、
マイナスの印象は与えないでしょう。目を見ながら
話すということは、自分の心からの誠意を示すということです。
どれだけ多くの言葉を並べるよりも、大きな効果があるでしょう。
7投稿者:STEP5『小さなこだわりを捨てよう』  投稿日:2003/05/02(金)05:54:54
自分なりの信念、こだわりをもち、それを貫くことは重要です。
しかし、この「こだわり」というものは、なかなかの曲者で、
頑ななまでの偏狭なこだわりは、視野をせばめ、人間関係において
さまざまなトラブルを招きます。あなたの「こだわり」は、
あなたの人間性を高め、人生を豊かにするものでしょうか。
そうでないならそんなこだわりはすっぱりと捨ててしまうべきです。
自分の考えは絶対に正しい。自分をバカにする人は許せない。
他人はもっと自分を尊重するべきだ……。――つまらないこだわりは
自分の劣等感や不安を打ち消そうとする気持ちから生まれます。
他人のちょっとした言動に腹を立て、わだかまりがなかなか
消えないときは、大きく深呼吸をして、胸の中でこう唱えましょう。
「つまらない人間ほど、つまらないことにこだわるものだ。自分は、
決してつまらない人間などではない」と。小さなこだわりを捨てれば、
心に余裕が生まれ、ストレスも減少します。他人を受け入れる
広い度量をもてば、また他人からも受け入れてもらえます。それは
決して、主体性をなくして他人に迎合するということではありません。
水は、器に合わせて自在に形を変えますが、水という成分自体が
変化するわけではありません。水のように、柔軟に、しなやかに
生きていきたいものです。確固たるポリシーをもっている人ほど、
他人の異なる考え方も認めてあげられるものなのです。
8投稿者:STEP6『自分の欠点を認識しよう』  投稿日:2003/05/02(金)05:58:40
何らかのコンプレックスのために恋愛に対して積極的になれない、
という人も多いでしょう。しかしコンプレックスは、はっきりと
自覚していれば、悪いことではありません。むしろ、人間として
正常な心理状態といえます。いい部分も悪い部分もひっくるめて、
それがひとつの人格なのです。「欠点があること」よりも問題なのは
「欠点を認めないこと」です。自分の欠点を認めようとしない人は
1) 他人の欠点も許すことができません。
2) いつも不機嫌で、近寄りがたい人という印象を与えてしまいます。
3) 自分の欠点を隠すことに精一杯で、成長がありません。
人間であれば、誰でも欠点をもっています。各々、その種類が違う
というだけのことです。皆、互いに許し、許され合っているのです。
「欠点があるから恋愛ができない」のだとしたら、世の中の
誰1人として恋愛などできないでしょう。悪意のない欠点であれば
無理に直そうとする必要はありません。
9投稿者:自分を  投稿日:2003/05/02(金)05:59:26
否定しようとするとかえって自己嫌悪が強まり、ますます
自信をなくしてしまうという悪循環に陥る可能性があります。
素直に欠点を自覚しさえすれば、それでよいのです。笑い飛ばす
ことができれば、もっと理想的です。「他人は、それほど
自分のことなど気にかけてもいないのだ」と気楽に考えましょう。
取り繕い、飾った姿の自分を誰かに愛してもらったとしても
何の意味もありません。今度は幻滅される事への不安に
脅えなくてはならなくなります。何より、あるがままの
自分を受け入れることです。自分を好きになれば、欠点など
知らないうちに直ってしまうか、まったく気にならなくなるか
いずれにしても、自然によい方向に向かうことでしょう。
10投稿者:STEP7『批判的な言葉を避けよう』  投稿日:2003/05/02(金)06:04:20
先日、電車に乗っていると隣の席に若いカップルが座りました。
女性が、「私、いつも、朝ごはん食べてないの」と話すと男性は
「ダメだよしっかり食べなくちゃ」。「でもダイエット中だから」
という彼女に彼はしつこく「ダメだよダメだよ」を繰り返すばかり。
彼女はついに「わかったようるさいなあ」とふくれてしまいました。
彼が「体によくないからしっかり食べた方がいいと思うよ」と
彼女を気遣う言い方をすれば、彼女からも「ありがとう」という
言葉が返ってきただろうに、と残念に思いました。彼は彼女を
心配していったことなのでしょうがその気持ちがまったく伝わらない
どころか逆に彼女の気分を害してしまいました。私たちは、人を批判
するつもりはないのについ無意識に批判的な言葉を使ってしまう
ことがあります。「ダメ」、「どうしてあなたは〜」……。
子供のころ親や先生にいわれてあんなに嫌だった言葉を、知らず知らず
のうちに自分でも使ってしまっていませんか。批判的な言葉を
使い続けていると相手から「何となくこの人とは話をしたくないな」
と思われてしまいます。悪意はないのに、うとまれてしまうなんて
まったくつまらないことです。
11投稿者:「〜してはダメだ」  投稿日:2003/05/02(金)06:05:23
というより、「こうした方がいいと思うよ」
「どうして〜してくれないの」というより「こうしてくれると
嬉しいな」。言い方を変えると、印象は大きく変わります。
日本語では普通、主語を省略しますが、主語を補って考えると
判りやすいと思います。「あなた」を主語にすると、相手を
批判する内容となってしまいがちです。「私」を主語にして
相手を直接批判するのではなく、自分の考えや気持ちを伝える
ようにしましょう。いい意味で「自分中心」に考えるのです。
習慣づければ、難しいことではありません。
12投稿者:STEP8『嬉しい気持ちを表現しよう』  投稿日:2003/05/02(金)06:09:54
人を愛すれば、自分も愛されたいと願うのは当然のことです。
しかし、「相手は自分のことをどう思っているのか」ということ
ばかり気にして臆病になったり、卑屈になったり、
嫉妬に駆られたりしては、自分が辛い思いをするばかりでなく、
相手にも負担を与えてしまいます。身勝手な愛情は、
思い通りにならなかったときには、憎しみ、恨みに変わります。
相手の立場になって考えてみてください。「あなたは私のことを
愛してくますか? 私を傷つけると許しませんよ」と、
取引でもするように、警戒しながら接してくる人のことを、
好きになれるでしょうか。「私はあなたのことが好きなのだから、
あなたも私のことを好きになるべきです」という押し付けがましい
態度は、まったくの逆効果です。それは愛ではなく「自分の自尊心を
満たすために、他人を利用しようとしている」だけなのです。
人を利用し支配しようとすることは、愛とは全く対極の行動です。
あなたが他人に利用されるために生きているのではないのと
同じように、他人もあなたに利用されるために生きている
のではありません。他人の心を、コンピュータに命令を
与えるように操作することは、不可能です。不可能なことに
やっきになって、神経をすり減らしても仕方がありません。
13投稿者:人を愛するためには  投稿日:2003/05/02(金)06:10:32
強い意志とともに、開き直りにも似た淡白さも必要です。
恩着せがましく愛を要求すれば相手はたいてい息苦しさを感じて
離れていきます。「あなたが私をどう思おうと構いません。ただ、
私は、あなたの側にいて、あなたと話をすることが、嬉しくて
仕方がないのです」という態度の方が、はるかによい印象を
もたれるのではないでしょうか。素直に、無邪気なほどに、
自分の好意を表現するだけでいいのです。「自分と一緒にいる事を
楽しんでくれる人」を嫌いになる人は、まずいないでしょう。
自分にできるかぎりのことをして、後は、宝くじでも買った
つもりで、運を天に任せましょう。
14投稿者:STEP9『不機嫌を抑えよう』  投稿日:2003/05/02(金)06:13:31
不機嫌は、あらゆる害悪のもとです。子供は、不満があっても、
それをうまく表現する言葉を持たないし、大人と対等に
わたり合うこともできないので、すねたり、だだをこねたり
するという手段を用いるのもやむをえません。しかし、結局
不機嫌からは何も解決策は生み出されないし、むしろ事態を
悪化させるだけであるということを学ぶことが、大人になる
ということではないでしょうか。不機嫌の原因が他人のせいで
あっても(たいていの場合、他人のせいですが)、
自分が不機嫌になるということが、子供じみた行為であることを
認識すべきでしょう。他人に腹が立ったとき、怒りにまかせて
文句を言ったり、仕返しをすることが、「他人に勝つ」ということ
ではありません。また、人を許すことは、「負けて引き下がる」こと
でもありません。そもそも、人間関係に勝ち負けなど存在しませんが
どうしても勝ち負けにこだわるなら、「どちらが大人か」という点で
勝負すればよいのです。嫌なこと、辛いことは避けられなくても
不機嫌は心がけ次第で避けられます
15投稿者:「ムカツク」  投稿日:2003/05/02(金)06:14:01
「キレル」などという言葉は自分の甘えや弱さから出てくるものです。
不満があるなら知恵をしぼって前向きな解決策を考え出すべきでしょう。
それができない自分、いいたいことをはっきりいえない自分への
ふがいなさが、ますます不機嫌を増幅させてしまうのです。自分を
ごまかしてはいけません。誰も、不機嫌な人と仲良くしたいとは
思わないでしょう。ニコニコと機嫌よくしていれば、自然とまわりに
人が集まってくるものです。他人に媚びを売るというのでは
ありません。媚びを売るのは、自分に自信のない人です。
笑顔で他人に接するということは、相手を尊重するということ
です。自信に裏打ちされた、精神的な強さが要求されます。
朝、目を覚ますと、まっさらな一日があなたを迎えてくれます。
さてあなたは今日という日を、にこやかに楽しく過ごしますか、
それとも、イライラと腹を立てて、台無しにしますか。
16投稿者:STEP10『怖れを捨てよう』  投稿日:2003/05/02(金)06:18:04
幸運にも、心の温かい両親のもとに生まれ、無条件に愛情を
いっぱい受けて育った人は、「自分は価値のある人間だ」という
自信をもち、何ごとも肯定的にとらえることができます。
自分と同様に他人の価値も認め、人を信じ、尊重し、愛する
ことができるから、自分もまた人から愛されるという、いい循環が
自然に生まれます。では親に愛されなかった人はどうすれば
いいのでしょうか。人間は弱いもので、まず自分が誰かに心から
愛されるという経験をもち、その喜びを実感できなければ、
なかなか他人を愛することはできません。幼い子供は、親に
頼らなくては、生きていけません。親の存在というものは、
自分の世界のすべてであり、生死にもかかわる重要な問題です。
その感覚を引きずったまま、大人になって社会にでると、
世の中というものを、家族を拡大したものだと考えてしまいます。
運悪く、冷たい家族の中で育った人は、世間もどうせ冷たいもの
だと思ってしまうのです。他人に嫌われるということに、
死ぬほどの恐怖を感じてしまい、ビクビクと他人のご機嫌ばかり
うかがってしまいます。子供の頃にうえつけられた、間違った感覚を
捨てなければなりません。親に愛されなかったことは不運でしたが、
それはまさに、単なる不運にすぎなかった、というだけのことです。
世の中には、何も悪いことをしていないのに、交通事故で
大けがをしたり、家が火事になったり、「なぜ自分がこんな目に」
と思うような不運に見舞われる人は、たくさんいます。
それと同じで、不運は誰にでも起こりうることであり、
仕方のないことです。逆に、「自分には、絶対にいいことしか
起こらない」と判っていたとしたら、そんな人生が楽しいでしょうか。
運が悪かったのは自分の責任ではありません。しかし不運を嘆いて
心を閉ざしてしまったり、攻撃的になったりして、他人から
嫌われる人間になってしまえば、それは自分の責任です。
どんなに辛くても、愛される資格を放棄してはいけません。
まず、自分が愛されたかったように、無条件に、誰かを心から
愛してみましょう。その愛が必ず報われるという保証はありませんが
怖れてはいけません。怖れを感じたなら、それは、「相手も当然、
自分を愛してくれるべき」と、見返りを要求している証拠です。
あなたが理想に描いていた本当の愛とは、そんな恩着せがましい
ものではなかったはずです。本当に人を愛したとき、怖れというものは
完全に消え去ります。物やお金を他人と分け合えば、
自分の取り分は減ってしまいますが、愛はいくら分け与えても
決して減ることはありません。
17投稿者:STEP11『怒りを乗り越えよう』  投稿日:2003/05/02(金)06:23:13
「ひとつ屋根の下」という大ヒットしたテレビドラマ。
過去のあやまちの許しを乞う人に向かって、登場人物の
ひとりが言ったセリフが、とても印象的でした。
「許すも許さないも、人間はそんなにえらくない」
自分を傷つけた人を許すことは、非常に難しいことです。
頭では判っていても、なかなかできることではありません。
しかし、許すという行為でさえ、実は、意識の奥に多少の
横柄さを含んでいるのです。「許すか許さないかは、完全に
自分の選択にかかっている。今回は、許してやるから、
ありがたく思え」と、人を裁く神にでもなったような気になり
相手を見下していると言えなくはありません。
もちろん、憎んでいる人を許すということは、大変な勇気のいる
すばらしい行為です。その「許す」ということさえ見方を変えれば
ふてぶてしいことなのです。「絶対に許せない」などというのは
ごう慢以外の何ものでもありません。人格に問題のある人は必ず
心の中に、誰かに対する激しい怒りを抱えています。
それは、あまりにも耐えがたい苦しみなので、抑圧し、
意識の奥に閉じ込めようとして、ついには本当に忘れてしまう
ことさえあります。しかしいくらごまかしても、無意識の中の
怒りの感情が消えたわけではなく、いつまでもくすぶり続け、
表の意識をむしばんでいきます。
人を許すことができず、心に怒りを抱えている人は、
どうかあのセリフを思い出してください。
「許すも許さないも、人間はそんなにえらくない」
他人を許すことができないなどと言う権利のある人は、
この世にひとりもいないのです。「他人のあやまちを許せない」
という人にかぎって、自分のあやまちには目をつぶり、
簡単に許してしまうものです。
18投稿者:人間は、  投稿日:2003/05/02(金)06:23:34
一生かかっても、完璧にはなりえません。死ぬまでが修行といえます。
つねに自分をかえりみて反省し向上しようとつとめていれば、
他人を批判する暇などないはずです。人を許せないのであれば
仕方ありません。もう充分です。こだわるのはやめましょう。
人を裁くという行為は、神や仏にしかできないことです。
許すも許さないも、ありません。そういうものを超越した、
新たな境地を切り開きましょう。あなた自身のために。
自分を傷つけたのも人間ならば、喜びを与えてくれるのも
人間です。これまで、怒りで目がくらんで見えていなかった、
人の優しさ、温かさに触れることができるでしょう。
「愛」は「怒り」よりもはるかに強力な、自分を守る武器
となるのです。愛を信じてみてください。
19投稿者:STEP12『優しさを見極めよう』  投稿日:2003/05/02(金)06:29:22
「恋人が、以前は優しかったのに、この頃、冷たくなった」
よく聞かれる嘆きですが、たいてい、そういう人たちのいう
「優しさ」とは、自分を褒めてくれる、自分を気遣ってくれる、
自分にプレゼントをくれる、という程度のものです。
もちろん、そういう優しさも不可欠ですが、それは本来、
人間としての優しさではありません。誰だって、恋の始まりの頃は
相手の気を引こうと努力します。肉体関係だけが目的の男でも、
女性を口説き落とそうと思えば、どんなに優しい言葉だって吐くし
女王様に仕えるように気を遣うでしょう。セールスマンが
商品を買ってほしいばかりに、客をもち上げるのと同じです。
褒められたり、気を遣ってもらったりすれば、気分がいいものですが
「自分を気分よくしてくれる」ということだけで、「この人は
優しい人だ」と思い込んではいけません。
「自分に優しくしてくれるから好き」といった程度の恋愛は
相手に飽きられてしまえばそれで終わりです。もちろん、
相手の気持ちを推し量るということは、重要です。
自分の感情や都合だけを押し付けてはいけません。しかし、
「相手にどう思われるか」ということだけが、恋愛のすべて
ではありません。相手の心ひとつにゆだねてしまうという、
主体性のない恋愛は、つまらないものです。
20投稿者:いずれ、  投稿日:2003/05/02(金)06:29:55
相手の心変わりに怯え、嫉妬に苦しまなくてはならなくなります。
相手が簡単に心変わりをするようなら、しょせん、その程度の
人間だったということですし、そんな相手しか選べなかった自分も
同レベルの人間ということ繰り返している人は、
一度、恋人の選び方について、考え直してみたほうがいいでしょう。
どちらが主導権を握るかなどという問題ではありません。ともに
「自分の責任において自分の意思でこの恋愛に参加している」
という意識が重要なのです。
恋愛ドラマの観客になってはいけません。自分が脚本家となり
シナリオを書くのです。「愛するとは互いに見つめあう事ではなく
ともに同じ方向を見つめることである」とは、サン・テグジュペリ
の言葉です。「私だけを見て」というのではなく、「ともに
歩いていこう」という関係こそ、人生のよきパートナー
となりえるでしょう。一度、相手を自分と切り離して考え
ひとりの人間として、判断してみてください。「自分をどう
扱ってくれるか」とは関係なく、相手の人格を総合的に見て
それでも好きだと思うなら、その恋はおそらく、長続きします。
21投稿者:STEP13『自分の値打ちは自分で決めよう』  投稿日:2003/05/02(金)06:34:48
人間は文字通り人と人の間にあってこそ意味のある存在ですから
他人からの評価というものは、重要です。他人の目があるから
恥ずかしくない生き方をしようと、プラスに考えられれば
よいのですが自分に自信のない人はいつも他人にどう見られて
いるかばかりを気にして、他人からの評価が自分の価値のすべて
であるかのように思い込んでしまいがちです。
他人の評価に一喜一憂して、神経をすり減らしていては、
きりがありません。人にバカにされたからといって、あなたの
人間としての価値が下がるわけではないのです。逆に、
あなたが誰かのことをバカにしたからといって、その人の
価値を下げることができるでしょうか。そんなことは不可能です。
それと同じことです。自分の値打ちは自分で決めればよいのです。
人を愛し、愛されるためには、心が健全でなくてはなりません。
自分に自信がなければ、他人を尊重することはできません。
「自信をもてることの何ひとつない人間は、どうすればいいのか」
という反論があるかもしれません。しかし、自信をもつということに
特別な根拠などいらないのです。「自分は、この世の中でたった
ひとりの、かけがえのない存在である。だから、自分は、
生きているというだけで値打ちがある」という理由でいいのです。
22投稿者:むしろ、  投稿日:2003/05/02(金)06:35:35
「学歴が高い」、「容姿が美しい」、「金持ちである」
などの、条件つきの自信などというものは、はかなく、虚しい
ものです。逆にいえば、「それを失えば、自分は価値がない」
ということになってしまいます。無条件に、自分は価値のある
人間だと思うこと、それは、誰にでも可能なことです。
「どうせ自分なんて何の値打ちもない」と自分を卑下する人は
本当は、愛されたい、認められたいと願望が人一倍強い人です。
自分が他人から否定されることを怖れすぎるあまり、先に
自己否定することにより、けん制してしまっているのです。
厳しい言い方ですが、自信のない人というのは、控えめに見えて
実は、自分のことしか頭にない、ごう慢な人です。
「他人が変わらなければ、自分も変われない」と思っているから
そこで成長がとまってしまうのです。まず、心のとらわれを
はっきりと自覚し、そこから解放されなくてはいけません。
自信をもてばもつほど、他人を思いやる気持ちが生まれ、
謙虚になれます。「自分が大切」だからこそ、他人も同様に
「自分が大切」だと考えていることを認めてあげられる、それが
健全な人間関係というものです。
23投稿者:STEP14『孤独の楽しみを知ろう』  投稿日:2003/05/02(金)06:40:33
孤独を感じたときには誰かにそばにいてほしい
と強く願うものです。しかし、淋しいからという理由で
恋愛を始めても、長続きする見込みはあまりありません。
淋しいときに恋人を求めても、自分と同じように淋しい人しか
寄ってこないものです。淋しい人同士が一緒にいても、
孤独感を癒すことはできません。逆に、ますます淋しさを
増すことになってしまうでしょう。両方が、「もっと自分を
認めてほしい」と要求しあうのでいつまでたっても心は満たされず
ついには互いを責め合う結果となってしまいます。
孤独感は、逃れようとすればするほど、大きくなります。
私たちは、孤独と正面から向き合うしかないのです。
うまく付き合えれば、孤独は楽しいものです。自分だけが孤独
なのではありません。人間として生まれた以上、孤独は、
誰にとっても避けられない宿命です。孤独な人間だと
思われたくないばかりに、必死で友人や恋人とのつながりを求め
嫌われないように気を遣い、携帯電話やメールでひんぱんに連絡を
取り合い、「楽しそうな人生を送っている私」を演じながら、
心の中はへとへとに疲れているという人の何と多いことでしょう。
焦って始めた恋愛は、ほとんど失敗に終わります。
24投稿者:恋愛経験の  投稿日:2003/05/02(金)06:40:50
多さを自慢する人がいますが、それは、同じ数だけ恋愛に
失敗しているということなのです。そんなことは、たいした
自慢にはなりません。一生のうち、真剣に愛する相手は、
ひとりかふたりいれば十分です。孤独を感じたときこそ、
自分を見つめ直すチャンスです。孤独の楽しみを知っている人は
人間として深みがあり、他人とも、表面的でない、親密な関係を
築くことができます。いつも誰かと一緒にいたり、携帯電話や
メールで連絡を取り合っていなければ安心できないのであれば、
それは本当の友情や愛情ではありません。「ひとりでも楽しい
けれど、ふたりならもっと楽しい」という関係が、もっとも
長続きするでしょう。孤独を楽しめるようになれば、心に余裕が
生まれ、自然に、必ず、よい恋愛に巡り合うことができます。
25投稿者:STEP16『自分のしたいことをしよう』  投稿日:2003/05/03(土)05:15:20
「自分のしたいことをする」ということに罪悪感を感じる方も
いるかもしれません。子供の頃「わがままをいってはいけません」
「がまんしなさい」と厳しくしつけられたために欲求を抑えてしまう
癖がついているのでしょう。もちろん、他人の迷惑も顧みずに
傍若無人に振舞ったり、他人から何かを奪ったりすることは
悪いことに決まっています。しかし、正常な感覚をもっていれば
他人を困らせたり他人を悲しませてまで自分だけが得をすることは
本当に喜べることではありませんので、おのずから「したいこと」
からは除外されるはずです。自分の心に恥ずることなく、
胸を張って語れること、見栄や私欲ではなく、心からの充実を
感じられることであれば、「したいこと」は、躊躇することなく
行っていいのです。行うべきです。人は、自分の喜びのために
生きていいのです。そのエネルギーが、まわりの人にも幸せを
分け与えます。「幸福論」を著したアランは、「人は、
幸福になる義務がある」といっています。権利などという甘いもの
ではなく、幸福は義務だといっているのです。幸福も不幸も、
少なからず周囲の他人に影響を及ぼすからです。
毎日の生活に充実を感じていない人は、他人の幸せを妬み、
他人の不幸を願うようになります。
26投稿者:樹木は、  投稿日:2003/05/03(土)05:16:57
自分の喜びのために生きていなければ、人を愛することはできず、人から愛され
ることもありません。
少しでも深く根を張り高く成長し多くの実をつけようとします。
犬は、広場につれていけば喜んで走り回りますし、鳥は
鳥かごから出してやれば、大空へ向かって飛び立ちます。
自分に与えられた能力を最大限に発揮しようと努めることが
生物に与えられた本能であり生きる喜びそのものなのでしょう。

縁起でもない話ですが、
もしあなたの命があと数年で終わると判ったなら、
残された期間、何をしますか。
あなたが今、思い浮かべたことが、きっと、
あなたにとっての理想の幸せの形です。
では、なぜ、それを今すぐに実行しないのですか。

自分が本当にしたいことは何なのか、自分はどういう人間に
なりたいのか、心からわき上がる声に耳を傾けてください。
自分が求める幸せが、他人の不幸の上に成り立つものでなければ
誰に遠慮することもなく、堂々と求めていいのです。
27投稿者:STEP17『自分なりの価値観を定めよう』  投稿日:2003/05/03(土)05:21:56
読者の方からいただくメールでもっとも多いのは、
「どうすれば自分に自信がもてるのか」という内容のものです。
ある男性は「私のような貧乏人は女性に相手にされるわけがない」
と言います。私はそういうお悩みに対して「あなたが貧乏である
ことを恥ずかしいことだと思っているのですから、仕方がありません」
と答えるほかありません。いくら私が「経済力と人間の価値とは
関係ありません」と言ってもそれはあくまで私の価値観であるに
すぎないのです。私は自分の価値観が正しいと信じていますが
それが万人に共通する絶対的真理であるとは思っていません。
世の中には、お金がすべてだと考えている人もいるでしょう。
その人がそれで幸せなら、他人の幸せを否定する権利は私には
ありません。ただ私はそうなりたいとは思わないというだけのこと
です。人それぞれが自分なりの価値観に従って生きています。
暴力で他人を服従させることはできても、意思までも変えることは
できません。価値観は、その人の自由な意思によって導き出された
ものなのです。「お金のある者の勝ちだ」と考えるのが自由なら
「お金がないから自信がもてない」というのもまた、その人が
自由に考えたことなのです。自分が、自分の価値観に従って自分を
無価値だと決めつけ、悩んでいる。――その姿は、自分で自分の首を
しめながら、誰かに助けを求めているのと同じです。
28投稿者:その手をゆるめさえすれば  投稿日:2003/05/03(土)05:23:52
楽になるのです。「劣等」から劣等感が生まれるのではありません。
「劣等感」から「劣等」が生まれるのです。人間に客観的な劣等など
存在しません。劣等感をもってはじめて、本当に劣等となって
しまうのです。自分に自信がもてないという人は、以下のことに
注意してください。「私は貧乏だから価値がない」と言うことは
世の中のすべての貧乏な人を侮辱することになります。
貧乏でも、明るく前向きに生きている人はたくさんいます。
自分の弱さを一般論にすりかえてごまかしてはいけません。
貧乏であることが恥ずかしいのではありません。貧乏を恥ずかしい
と思うことが恥ずかしいのです。
「私は太っているからモテないのだ」と言うことは、世の中の
すべての太っている人を侮辱することになります。「私は体が
不自由だから不幸だ」と言う人は、世の中のすべての身体に
障害のある人を侮辱することになります。あなたはもう、何かと
理由をつけて「自分は価値がない」などと言うことはできません。
それは、同じ境遇の人に対して、とても失礼な発言なのです。
人間にとって、幸せとは何か。何が正しく、何が間違っているのか。
何が美しく、何がみにくいのか。絶対に正しい答えはありません。
29投稿者:自分の頭で考え、  投稿日:2003/05/03(土)05:24:35
自分なりの価値観を確立してください。世の中にはあなたを
バカにする人もいるでしょう。しかしその人は自分の独善的な
価値観でものを言っているにすぎないのです。
あなたが腹を立てたり、落ち込んだりしてしまえば、それは
相手の価値観を認めることになってしまいます。
そんな人のことは、気にしなければいいだけのことです。
どんなに立派な人格者だって妬みから悪口を言われることも
あるでしょう。すべての人に認められるなどということは不可能だし
必要のないことです。自分の価値観を他人に押し付けず他人の
価値観に惑わされない。自分の信念を貫きながらも、間違いに
気づけば改める謙虚さをもつ。それが自信をもつ方法です。
人の道に外れることなく、まっとうに生きてさえいれば、何も
恥ずかしいことなどありません。
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